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科学者心得帳【池内了】

  • 2008/04/15(火) 21:05:17

科学者心得帳科学者の三つの責任とは
池内 了 著
みすず書店(2007年)

(2007年4月15日読了)
大学院で最初の講義が「科学・技術と社会」であった。そのレポートのために指導教官に貸していただいた本だ。
そしてその著者はこの講義の講師である。
最近書かれた本ということもあり、その内容は講義内容とほぼ重なっている。
よって丁度良い復習になった。

ぼくはアカデミズムを離れて一年間、半フリーター半ニートをやってから大学へ戻ってきた。
また、生物学を専攻しもっぱら生命現象そのものに興味をいだいてていたが、科学以外の趣味のためか興味対象がHomo sapiensとその活動に移ってきた。
だから「科学と自分と社会」の関係を強く意識するようになったわけですよ。
ぶっちゃけ、この楽しい研究活動というものを末永く続けるためには社会と上手く付き合う必要があると思ってる。

科学者は社会と上手く付き合わなくてはいけないというのはぼくの直感だけでなく、最近は科学の現場(大学院、研究機関などの研究室)においても意識され始めているらしい。
近年科学者や技術者の不祥事が相次ぎ、一般の人々の科学・技術不信が強まっている。
また、科学技術が一般生活の基幹に影響を与えていることや環境問題を意識する人が増えて科学・技術への関心が高まっている。
一方で科学の最先端では専門細分化が進み、素人が簡単に理解できるものではなくなってしまった。そして、その最先端に居続けるために現場の科学者は社会に目を向けている暇はないと考えている。
しかし、本質的に科学が社会と寄生的共生関係を持っている(∵研究資金が社会から支払われている)ために科学の存続のためには上述のギャップを埋める必要がある(もちろん科学技術がその基幹をなしている社会もそうしなければ存続が危ういだろう)。

池内先生は天文学を専門としているガチな物理屋だが、上述のように科学と社会との関係を考えていく必要があると思っているらしい。どうやら湯川秀樹や朝永振一郎といったかつての物理学のヒーローの社会活動の影響もあるようだ。

以上を踏まえて池内先生は、科学者が三つの責任を果たすことで科学・技術と社会が上手く付き合っていけるだろうと主張している。

1.倫理責任
まず科学者なんだから科学には誠実にしろよと。捏造とか偽造とか盗用とかありえん。
それにセクハラとかアカハラとかくだらないことすんな。一般の法律くらい守れ。

2.説明責任
自分が何やってるのか積極的に一般の人に説明しましょうね。
すぐに社会の役に立たない分野のひとも大丈夫。ちゃんと自分の仕事をしてれば「文化の基礎に貢献している」と胸を張って言えるよ。
「第三者評価などで説明責任を果たしている」とかいうのはただのごまかしだし、仕事の重厚さに負の影響を与えるからやめた方がいいなあ。

3.社会責任
科学者は科学・技術に関することやそれがもたらす将来について、その知識を活かして科学的に予想ができる専門家である。だから科学・技術がもたらす問題には積極的に意見しようよ。可能な限りの選択肢を一般市民に示そうよ。
なぜなら科学は人類の幸福のためにあるのだからー
できたら人類の幸福を侵害するものは積極的に阻止していきたいなー

で、ぼくの感想だが、
1は簡単ですよ。科学に魂を売り渡した人間ならこれくらいできんくてどうするよ。そうでない人、ただ生活の手段として科学をやってるだけの人はもうやめたらいいよ。科学への風当たりは強くなってんだから、もっと楽な仕事した方がいいって。
2も大丈夫。責任以前に、一般に対して自分の研究内容をきちんと説明するというのは、それに対して深い理解が必要になるので、真面目に仕事してればクリアしなくてはいけないことだと思う。できないなら、いままでただルーチンで仕事をしていて、きちんと自分で理解してないってことなんじゃないかな?
まあ発達段階の途中にいる子供や、科学と聞いただけで拒否反応を示して思考停止する忙しい社会人に説明するのは難しいという問題はあるけど。でもそれ自体、解き甲斐ある問題じゃないか。

3もね、ぼく個人としてはいろんな人と連携して仕事していきたいと考えているので、こういう責任は積極的に果たしていきたいと思います。
だけど池内先生が暗黙に前提としている「科学は人類の幸福のために」というのはアクセプトできません。
彼が偉大な先人同様に本気でそう思っているのか、「社会のための科学」というトレンドを意識してこの前提を根本に据えているのかわかりません。
でもぼくは「科学のための科学」ですべて解決できないかと考えている。科学が扱えない対象に科学を付随させるよりは、その純粋性を保つ方がより信頼性の高い科学を築けるのではないかと思う。
言うなれば池内先生の前提としているのは「人間原理主義的科学」、ぼくの目指すのは「実存主義科学」で、前者は人間が作った人間独自の科学という立場があり、後者は科学はそれ自体としてすでに世界に存在しており(事実の総体として科学をとらえている)科学的営みとはそれに近づく試みであるという立場がある。
なんかプラトンとアリストテレスの話みたいだな。
どちらが正しいのかというのは哲学的な問題といえるかな?どちらかというと価値に属する問題、すなわち個人的な問題であり、議論したところでなかなか解決できなさそうだ。
しかし逆に、このあたりを深く考察していくことが、科学と自分と社会の関係を考える上で鍵になっていくのだろう。

あと引っかかる点がもう一つ。
池内先生は、科学の醍醐味として「誰もみたことない世界に最初にたどり着ける」ことをあげている。
この点はぼくも賛成。退屈しのぎとしてこれほどのものはない。
しかし「二番目の発見には意味がない」、あるいは「一番でなければ虚しい」というのは賛同しかねる。
しかねるのだけど、いろんな科学者が同じことを言っている。学部のとき何人かの先生がそう言っていた。ノーベル医学生理学賞を受賞した利根川進も『精神と物質』中で同じようなことを言っていた(ただし、1番になって著名人となれば最先端の研究者と情報交換ができるようになってまた新しい問題を解きやすいというニュアンスだった)。
しかし、人類全体で何番目に発見しようと独立に発見されたのなら、それが科学的な手順を踏まえて発見されたものならば、その価値は科学的には同じではないか?
(でなければ教育において学生が自分の力で発見する行為も意味がなかったり虚しいものになってしまう)
いままで話を聞いた中で同様のことを言っていたのは、退官してしまった学部時代の指導教官だけである。
その妙に順位にこだわるところは、進化人類学を専攻しかつジェンダーを強く意識している自分には、ヒト雄の権威主義的性向ではないかと考えてしまう。
(ヒト社会において権力を掌握することが繁殖成功度を上げるという例があるため、この予想がただの思いつきとは言いきれない)
幸いに大学院では指導教官のうち2人が女性であるし、まわりに女学生もいるからこのあたりアンケートしつつ考察していきたいと思う。

まあとにかく、引っかかった点はどちらも自分の研究を進めると同時に考えていけそうな問題だと思う。
レポートは記事を書きながら考えたことをもう少しまとめて出すつもり。


科学者心得帳――科学者の三つの責任とは科学者心得帳――科学者の三つの責任とは
(2007/10/11)
池内 了

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