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感性の起源【都甲潔】

  • 2009/08/11(火) 14:38:32

感性の起源
都甲 潔 著
中公新書(2004年)

(2009年8月11日読了)
去年の4月に先生に借りたまま、ずっと読んでなかったのをここ3日くらいで読み片付けた。
ヒトの感覚(sense)について、科学的事実から述べたエッセイ。
著者の教養は広く、内容も興味深い。
特に新しい試みを考察している「第5章 味覚を表現する」、「第6章 嗅覚を表現する」は面白い。
ただ、全体として、個々のエピソードは詳しく書かれているのに、それを繋げるロジックは余り正確ではないように感じた。
生物について述べるとき、縦糸としてもっとも一般的なロジックは「進化」であるが、著者の進化に関する理解は十分でないようだ。
「目的論的理解」「進歩主義(単純(下等)→複雑(高等))」というありがちな誤解があるようだ。
著者は進化学に強い九州大学の出身だが、生物学者ではなく情報工学が専門なので、仕方のないことだし、軽いエッセイとしてみれば許容範囲の不正確さだと思う。
ただし、「感性の起源」というタイトルにしては内容不十分と言わざるを得ないのが残念。
あと、自分化中心主義な傾向があり、東洋、日本、関西の文化への批判精神が薄いと感じた。
例えば下記の文にそれが顕著だ

 かつおぶしや昆布の利用は、海に囲まれたわが国の特権ともいえる。昆布は、水につけてうま味を出し、沸騰直前に取り出す。かつおぶしは、沸騰させた水にさっと煮出すだけで、そのうま味が出る。このようなうま味をいつでもすぐにだし、しかも料理の素材の味を活かすのは、日本料理の神髄ともいえるものである。新鮮な材料の入手が容易な日本ならではの料理法である。
 一方、西洋料理では、ツルゲーネフの『猟人日記』に「料理をおいしくするのは材料の味をいかに変えてしまうかである」とあるように、食品素材の味を変えることによって、複雑でコクのある味を出している。中国でも「足のはえているもので食べられないのは机だけであり、翼のはえているもので食べられないものは飛行機だけである」といわれるとおり、料理とは、食べられないものを食べることができるように加工することと考えられている。その意味において、関西の食は、食材を活かした洗練された食という意味で、日本の食文化の原点である。


各料理への記述はだいたい正しいと思うけど、どれが「洗練された」ものであるかは主観的な、尺度の設定のしかたによる問題だ。
まあ、確かに関西の料理はうまいけど。
九州大学の出身者の話によると、九大の近くではうまいものがたくさん食べられるらしい。街から離れた大学に通う身としては羨ましい話だ。

感性の起源―ヒトはなぜ苦いものが好きになったか (中公新書)感性の起源―ヒトはなぜ苦いものが好きになったか (中公新書)
(2004/11)
都甲 潔

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アフリカを食べる/アフリカで寝る【松本仁一】

  • 2009/04/23(木) 21:59:38

アフリカを食べる/アフリカで寝る
松本 仁一 著
朝日文庫(2008年)

(2009年4月22日読了)
元朝日新聞のアフリカ/中東特派員である筆者が、特派員時代の生活を語ったエッセイ。朝日新聞の連載を元にしているらしい。
筆者には偏見や先入観があまりない。興味があれば何でも口にし、慎重な人なら絶対に近づかない危険な場所でも寝泊まりし、素直な感想を述べている。
臭くて苦手なカメムシの干物でも、とりあえず現地の人が食べてるものならと口にして、美味いと袋一杯買ってしまうくらいである。
筆者がそのような態度をとるのも「どんなに変わった風習があっても、それにはその土地で暮らす人々にとっては重要な理由がある」という信念があるからである。

そのような筆者の述べる感想は非常に合理的である。
それが特に現れてるのが、「アフリカを食べる」の「ミドリザル」の項目で、アフリカから発祥したエイズの起源がミドリザルであるという説に対し、

たんぱく質に飢えた人々が、必死で猿を捕まえようとして、噛まれたり引っかかれたりして傷ができ、血液感染した―


のではないかという仮説を述べている。
全く自然な解釈であるのだけど、科学者でさえ、案外専門外では(特にホモサピエンスに関わる場合では)このような理解ができなかったりする。
実際、学者が「サルに対する獣姦があったのではないか」という無茶な仮説を述べて問題になったそうだ。

このようなマトモな記者しかいなかったなら、朝日新聞だけ購読しても良いんだけどね。

最後にこの書で一番感動した一節を紹介したい。
筆者はザイールのルワンダ難民キャンプで、めったに食べられないごちそうである揚げパンを食べていた少年に「うまそうだね。おじさんにくれないか」と冗談を言う。
少年は困ったような顔をしながらも、筆者に揚げパンを渡す。

パンはべとべとしていた。薪の不足で油の温度が低かったのだろう。しかし、気持ちがうれしかった。小さな子が、やっと手に入ったお菓子を見ず知らずの私にくれる決断をしたのだ。
アフリカの人々は人に乞われると断らない。それが美徳なのだ。親は子をそう教育する。それが、難民キャンプという最低の生活の中でも生きていた。


これが事実ならアフリカの民はとてつもないと思う。
そんな人々が、貧しく極限な生活を送っているというのは、ショックだし残念な話だ。

アフリカを食べる/アフリカで寝る (朝日文庫 ま 16-5)アフリカを食べる/アフリカで寝る (朝日文庫 ま 16-5)
(2008/11/07)
松本 仁一

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疑似科学入門【池内了】

  • 2008/05/19(月) 23:29:36

疑似科学入門
池内 了 著
岩波書店(2008年)

(2008年5月1日読了)
読み終わってから記事を書くまでに時間があいてしまい、書くタイミングを逃してしまった。
週刊文春の文春図書館に書評が載ってたみたいなので、まあこれを機会としてちょっとだけ書く。
また読む機会があったらそのときちゃんと感想を書く。

とにかくこの本を読んで感じたんだけど、
池内さんは全てのひとに科学者並みの科学リテラシーを望んでるのかな?
疑似科学にハマるのは疑う精神を持たず思考停止に陥っているからだと一貫して主張している。だから考える力を養えば疑似科学にハマるのをある程度防げると。

でもぼくはそんな必要あるのかと思う。
ヒトはある程度ものを考えなくてもそれなりに幸せに生きていける。
ぼくらは科学や技術と隣り合わせの生活をしているけど、その詳細について理解していなくても何も困らない。
せいぜい、機械が壊れたときにアタフタするくらいだ(でも世の中には電子レンジに幼児を入れてしまうひともいるので多少はわかっていた方がいいかな)。
むしろいったん理解してしまうと、科学なんて所詮わからないことだらけなので疑問のスパイラルにハマってしまう。そんなのはそれが趣味のひとがやればいいよね。

平等で公正な社会の構築のためには疑似科学が跳梁跋扈する状況は好ましくないけど、それを排除するためのコストが一般人にとって大きすぎると、結局失敗してしまいます。

何か実用的かつ具体的な対処法はないものか?
例えば査読があって、かつ専門家の間で権威があると認められている(学術)雑誌にその説を支持する論文が載ってない限りは信用しないとか。
つまり科学的に吟味されたエビデンス(証拠)がなければ信用しないということ。
論より証拠ですよ。
(ただし、手品のことを考えればすぐわかるけど、目の前でデモを見ただけでは証拠として不十分であることを忘れないように)
本書で著者は疑似科学を三通りに分類して分析するという、学問としては意義のある試みをしているけど、結局対処法は分類とは関係なくケースバイケースみたいだし。

書いてあることは正論だけど正論だけではひとは動かんのだ。

池内さんはどんな層を想定読者としているのだろうか?
多分一般人ではない。
新書だし、疑似科学批判に興味のある教養人や学生向けなのかな。


読んでて頭の体操にはなった。

疑似科学入門 (岩波新書 新赤版 1131)疑似科学入門 (岩波新書 新赤版 1131)
(2008/04)
池内 了

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99.9%は仮説【竹内薫】

  • 2008/05/01(木) 13:09:16

99.9%は仮説思いこみで判断しないための考え方
竹内 薫 著
光文社新書(2006年)

(2008年4月29日読了)
あとでエントリを書く予定の池内さんの本を探しててみつけた。
偶然にもどちらの本も科学の限界、というより科学的な手続きとそれが扱えるものについて強調されている。
でも書き方が全然違う。その話は後ほど。
レポート書くために買ったんだけど、結局レポートには使わなかった。
まあ、いつも考えているテーマなので勉強にはなったか


最初から「世の中全部仮説にすぎない!」とか「あらゆる仮説は永遠に検証できないものだとしたら、、、」など過激なことが書かれているけどトンデモ本ではありません。
言いたいことは別に「世の中すべて信じるな」というほどではなく、「今正しいと思ってることが明日には変わるということはよくある。だからって怒っちゃダメだよ(´・ω・`)」程度のことじゃないかな。
あるいは「もうちょっと注意して生活してみようね」みたいな。

相対性理論から共約不可能性へ話を持って行き、それを人間間のコミュニケーションに適応するのは少々強引だけど、「相手の立場を理解することで話が通じるようになる」というのは正しいやり方だろう。

さて、残り0.1%のanti仮説は何なのだろうと思いながら読み進めたけど、最後に書かれた質問
「「すべては仮説にはじまり、仮説におわる」という私の科学的な主張は、はたして反証可能でしょうか?」(全文ママ)
に関係あるらしい。

数学的帰納法のようなやり方で主張の証明はできると思う。
でも反証はできるかな?文脈によってできたりできなかったりすると思う。
このひと本の中で「仮説」を複数の意味で使ってるからなー。
そして「」内が反証不可能であれば、この本での定義からすると「」は科学的な主張ではないということになるので、文全体の意味が、、、

げ ん ご っ て お も し ろ い ね !

話題が比較的絞られているので批判的に読んだとしても負担が少なく、とても読みやすかった。いろんなひとにオススメ

ところで、途中「健康法や育児法はグレーゾーンだらけ」と書かれてるんですけど、、、
ダチんこの茂○さんのことですか(^^;)

99・9%は仮説 思いこみで判断しないための考え方99・9%は仮説 思いこみで判断しないための考え方
(2006/02/16)
竹内 薫

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女性vsテクノロジー【ジョアン・ロスチャイルド 他】

  • 2008/04/24(木) 21:52:01

女性vsテクノロジーMachina Ex Dea
ジョアン・ロスチャイルド 編
綿貫 礼子・加地 永都子 邦訳
新評論(1989年)

『科学・技術と社会』のレポートを書く上で見つけた資料。
フェミニズム運動、エコロジー運動、ポストモダンに元気があった時代に書かれたとても刺激的な論文集。
でもその時代精神を共有しないぼくにはかなり読みにくいぜ。
あと著者に科学者が殆どいないし。ぼくは当時の現場の話がもっと書かれていると期待したのだけど。

あまり、レポートには役に立たないと思われるけど興味深く感じたポイントを少々メモしておきます。

「科学の目的は自然の支配である」
なんかこういう考え方があったらしい。そこに自然=女性という前提がある。女性=産む性だからだそうである。
自然の支配が目的であるというのは技術的側面に重点をおいて、つまり社会的な利益を重視して科学をみているのではないか?
でも、科学の黎明期から科学には自然の理解を目的とし、自然への尊敬を少なからず持っていたと思う。

「自然vs科学、女性vs男性、調和vs支配」
この論文集では、こういう対立があるんだと明に暗に主張されている。
そんな対立存在するんですか?とぼくは思うのだけど、もしかしたらこれらのような思想はいまも一般に根強いのかもしれない。

「カトリック的思想」
がこの本で批判されている問題の根本にあるんじゃないかと直感的に感じた。
女性は付随的な性であるという社会からのプレッシャー、あるいは劣等感が原動力になっているのではないか?
近年のぼくは、性的マイノリティの問題にばかり目を向けていたんだけど、男女不平等って現在って解決してたのかな?日本ではどうなっていたのかな?
(2008年4月26日追記付加)

とにかく「人間が自然の上位に存在する」という科学的に考えても間違った主張(人間が自然の上とかありえんし。ヒトなんてたかがサルの一種じゃんか)を前提にした文章から上手く意味のある内容を汲み取れるテクを確立したらもう一回この本を読んでみようかと思う。


女性vsテクノロジー女性vsテクノロジー
(1989/01)
ジョアン ロスチャイルド、 他

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